不意に、知っている『馬』の名前を言ってみて?と聞かれたら、なんの馬の名前が返ってくるのでしょう?

小さい子に聞いたなら、もしかしたら『ペガサス』や『ユニコーン』の様に、神話に出てくるような名前だったり、漫画好きな人なら『黒王号』や『松風』でしょうか。

競馬ファンな方でしたら・・・それはもう様々な名前が出てくる事でしょう。

“馬”は、上記に挙げた中に有るように、神話が語り継げらる時代には既に、私達人間と共に生活を送っていたんですよね。

近年に掛かれば掛かるほど、出てくる名前は競走馬になってしまいますが、古代の伝説上に名前を残している馬も、やはり名馬ゆえに語り継がれているはずですので、時代を追って「名馬」を簡単にではありますが紹介してみたいと思います。

馬 名前 歴史

歴史に名前を残した名馬達

古い時代に名前が残っている馬の場合、大体はその時代の“英雄“が乗っていた馬になるパターンが殆どですね。

時の権力者に献上される価値のあるモノとして、馬はとても重要な存在だった事が分かりますね・・・。

では、順を追って紹介して参ります。

ブケバロス

伝説の名馬として、よく出てくる古代の馬と言えば「ブケバロス」でしょうか。

古代マケドニア(現在のギリシャ共和国の広域自治体)の王様で有名な『アレキサンダー大王(アレキサンドロス3世)』の愛馬であったとされています。

アレキサンダー大王のお父さんへの貢物だったそうですが、誰も乗りこなせない暴れん坊だった「ブケバロス」を見事乗りこなし譲り受けた逸話が残っています。

騅(すい)

次に古い時代の馬で名前が出てくるのは、「騅(すい)」です。

中国の秦の時代から漢へ変わる頃の武将で有名な項羽の愛馬です。

項羽の最期のエピソードによりますと、漢軍が和平の約束を破られ攻め入られ、長江の岸辺にある烏江という土地まで退却してきました。

烏江の亭長は項羽を庇おうとしますが、項羽は断りその後、自ら敵陣へ入り迎え撃ちます。

その時に、戦乱によって失うには勿体ない馬と「騅」を亭長に預けますが、敵陣にて項羽が果てたのを感じたのか、「騅」は項羽の元へ行こうと長江を渡ろうとしましたが、力尽きてしまったという伝承が残っています。

インキタトゥス

次はローマ帝国第3代皇帝のカリグラが寵愛したと言われている「インキタトゥス」です。

伝説としては、人語を解していたとされていますね。

名馬としてのエピソードとは、少々違うかもしれませんが、なんとこの「インキタトゥス」はカリグラ帝にとても贅沢な暮らしをさせて貰っていたらしいです。

馬具には宝石が煌めいて、飼い葉には桶の中は金箔が混ざった麦を食し、18人の召使まで居たそうです。

そうまで、大事にするほどの名馬としての魅力があったのでしょうね。

しかし、どこまで「インキタトゥス」自身が喜んでいたかは分かりませんが・・・。

普通に、羨ましいですけどね・・・。

赤兎馬(せきとば)

またまた、中国に戻りまして、かの有名な“三国志時代”の馬を紹介します。

三国志に出てくる馬では断トツな知名度と思われます「赤兎馬」です。

赤兎馬についての記載を見てみますと、“一日に千里を駆ける事が出来た”と言われています。

実際に細かな数字をいいますと、当時の距離で計算すると千里は414.72㎞(ちなみに直線で東京-大阪間が約403㎞)だそうですが、多分物凄く遠い距離の様な意味合いで使われていたと思われます。

赤兎馬は、元々から名馬として扱われていた様で、董卓から呂布へ寄贈され、その後呂布を討った曹操の元へ・・・。

曹操が自分の部下にしたかった関羽へ贈り物として与えたところ、気性が荒く誰にも乗りこなせないと言われていた赤兎馬を見事に乗りこなし、関羽の馬となったとあります。

関羽が処刑された後、馬忠へと渡ったが食を失くしてしまったそうです。

関羽という主人が居なくなった事で、絶食をしてしまうほど忠誠を誓ったかのような最期と言われています。

絶影(ぜつえい)

前述の曹操が騎乗していた馬と言われています。

“影を留めないぐらい速く走る馬“という意味で「絶影」と名づけられたそうなので、それだけでもとても速い名馬だったのでしょう。

実際に曹操が奇襲を受けた時に、絶影によって逃げ延びる事ができたというエピソードがあります。

鬼鹿毛(おにかげ)

ヨーロッパや中国と来ましたので、そろそろ日本に参ります。

「鬼鹿毛」は、武田信玄の父親である武田信虎の所有する馬でありましたが、信玄が「鬼鹿毛」を譲って欲しいと訴えたところ、鬼鹿毛以外は譲るから鬼鹿毛は諦めろと聞き入れてもらえませんでした。

この事も後々にある、信玄によって信虎が甲斐の国を追放された原因のうちに数えられているそうです。

「鬼鹿毛」自体の話は少ないのですが、このエピソードから考えても、それほどの名馬だったと思わざるを得ませんね。

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黒雲(くろくも)

結局のところ、上記の武田信玄の愛馬として名前が挙がるのはこ“黒雲”です。

“黒雲”のエピソードも、とても気性が荒く信玄公以外は乗りこなせなかったそうです。

更に、数居た影武者達も乗れなかったという逸話が残っていますが、そこでバレたりしなかったのかなぁなんて、無粋な事を考えてしまって・・・いけませんね。

松風(まつかぜ)、または谷風

戦国時代の傾奇者で有名な前田利益(前田慶次)の馬として有名ですね。

松風は、あまりに見事な馬であったので、人々は立ち止まって誰の馬か?と噂している様が後世に残っているエピソードにありますね。

馬が横行している時代でも、立ち止まって眺めるほどの馬というのは、普通に凄いですね。

膝突栗毛(ひざつきくりげ)

戦国時代の名馬の最後を飾るのは、島津義弘の愛馬です。

“膝突栗毛”は、木崎原の戦での敵将との一騎打ちの際、膝を曲げて敵の攻撃をかわしたとのエピソードが有ります。

また、島津義弘を背に乗せている時、敵に槍が届くように膝を曲げた等の逸話も残っています。

名前にまでなっているので、その様な行動は実際あったと思わざるを得ませんね。

珍しくお墓も残っているんだそうです。

マレンゴ

では、西洋の近代での名馬に移りまして、フランスの英雄ナポレオンの愛馬“マレンゴ”です。

白い芦毛の馬に乗っていアルプス越えをするナポレオンの絵画はご覧になったことはあると思われます。

でも、実際アルプス越えの時は“マレンゴ”に乗っていなかったのでは?と言われていますが・・・。

それはさておき、“マレンゴ”は並外れて足が速く、戦場の喧騒にも動じなかったと言われています。

体高は142cmとポニー種ほどの大きさにもかかわらず、8回も傷を負ってもナポレオンが敗れるまで共に戦いました。

ナポレオンが捕らえられた時、戦利品としてイギリスへ連れられました。

現在でも、“マレンゴ”の骨格は英国立陸軍博物館にて保存・展示されているそうです。

ダーレーアラビアン・バイアリーターク・ゴルドフィンアラビン

なんと現代の競馬で有名なサラブレッドの直系父系祖先を記載があるだけ遡ると、必ずこの3頭のどれかにあたるのだそうです。

この3頭は、三代始祖と呼ばれています。

ちなみにこの3頭がいた時代は、まだサラブレッドという種の概念ができる前ですので、この3頭はサラブレッドと呼ぶ訳ではないそうです。

お恥ずかしながら、順に~なんて言いながらよくよく調べたら、マレンゴより1世紀ほど前の馬達でした。

オールドバルディー

アメリカの南北戦争の時代に名を残している軍馬です。

アメリカ合衆国陸軍のミード少将の愛馬でした。

戦場では、右後ろ脚を負傷したり、銃弾がなんと首を貫通してしまい命を落としかけたというエピソードも有ります。

流石に、銃弾が胃に到達してしまった時はミード少将の命令を聞くことが出来ずに前進できなくなったそうですが、治療と休養を取った後再び戦場に復帰したそうです。

バルディーが最後に行った仕事は、ミード将軍の葬儀の時だったそうです。

現在では、はく製とされた頭部分が飾り板に乗せられてガラスケースに収められているそうで、“南北戦争と地下鉄道博物館”のミード将軍資料室にて、展示されています。

ウラヌス

この記事の名馬紹介の最後は、日本が唯一オリンピックの馬術競技で金メダルを取った事があるこの“ウラヌス”です。

“ウラヌス”は1930年に日本陸軍騎兵将校の西竹一(最終階級大佐)が、イタリアで購入したとされる体高181cmもある大格馬でした。

元の持ち主が、性格もかなり激しく乗りこなすことが出来ないので売りたがっていた事を聞きつけて、自分が挑戦してみようと興味を持ったそうです。

先述で何度も出てきているように、やはりこの“ウラヌス”も西以外に乗りこなすことは出来ませんでした。

ですがその後は、西と共にヨーロッパの大会で数々の入賞を収め、ロサンゼルスオリンピックでは金メダルを獲得しました。

それ以降のオリンピックの馬術競技では、日本はメダルをまだ1つも取れていません。

当時のオリンピックの花形種目だった馬術競技で見事金メダルを獲得した勇姿に「バロン西」と世界中から称賛されたそうです。

そのオリンピックで“ウラヌス”は、障害を飛び越えるシーンで自ら体をよじってミスを防いだというエピソードが残っています。

引退した後は、馬事公苑にて余生を送っていたものの、西中佐が戦死した1週間後にまるで後を追ったかのように病死したそうです。

その1年ほど前に、1度西中佐は“ウラヌス”に会いに行っていますが、そのエピソードでは、西の足音が聞こえた時点で狂喜したそうです。

西に会えた“ウラヌス”は、馬の最大の愛情表現と言われている、首を摺り寄せて愛咬をしたと記載が有ります。

“ウラヌス”にとって、物凄く大事な存在だったんですね。

現在は、西大佐が最期を遂げるまで身に付けていた“ウラヌス”のたてがみが見つかり、本別町歴史民俗資料館にて収められているそうです。

まとめ

まだまだ、競走馬を入れてしまうととんでもない数になりそうですので、逆に競走馬以外で名馬と呼ばれた馬を紹介してみました。

農村などで活躍してくれた馬は、多分記録として残ってないでしょうから、戦関係の馬が殆どになってしまいましたね。

しかし、ウラヌスの説明でも少し書きましたが、気性が荒く誰も乗せないプライドを持った様な馬が、その後の主となる人にだけに忠誠を誓うかの様に振舞っているのが凄いですよね。

別の場所に居ても、後を追うかの様に・・・のエピソードも多いですね。

お互い認め合ったら、何の約束もある訳でもないのに、分かりあえる不思議さがあるように思いました。

古来から共に暮らし生きてきた馬ですから、場合によっては人間同士よりも固い絆で結ばれていたのかもしれませんね。

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